運も実力のうちブログ

運勢と仲良くして楽しい人生を送るライフハックblogです。

変えたい世界がなくても

前回の記事で「私は全ての人が生きる希望と活力を得る中心哲学を作る。そしてそれを普及する」ということを書いた。

megumintia.hatenablog.com

 

 

そしたら何件かDMで「それって本当ですか?」みたいなメッセージが来て、インターネッツって怖いなぁと思ったりしながらも、「ああそう言う気持ち分かるな」とも思いました。

 

と、いうのも私も本当につい最近まで

 

 

「子供が喜んで未来を語れる社会を作る!!」

「大人の笑顔を増やす!」

「働くことが楽しい社会を!!」

「自殺者ゼロを目指す!!」

 

みたいなことを掲げている人を見て

 

 

「えーどこまで本気なわけぇ?きれいごとじゃないの?偽善とかモチベーションアップのためやイメージ良くするために無理やり言ってんじゃないのー?そんなおっきな事言って大丈夫~?あなたに何が出来るの~?現にこれを見てるわたしは、死にたいし、あなたに止められるとも思えないし、働きたくないし笑えていませんけどー??」

 

 

みたいな感じでめっちゃ斜に構えていたし、なんなら起業家仲間のそういうキラキラした「志」に対して「あれって、本気で言ってるの?」とか本当に失礼なことを聞いたことがある。

 

 

今だから本当に思うけど

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの大きな志を

疑ったりして本当にごめんなさい!!!!

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だからね、そうやって疑う人の気持ちもよく分かるし、おそらく先人たちも応援だけではない反応を頂いたこともあったのかなと思いましたし、今回の件は私にとって単純に因果応報ですね。やったらやられる、これはマジだ。禊だと思って受け止めようと思いました。

 

 

何度も言う、疑う気持ちはよく分かる。どうして疑いたくなるかというと、自分がそういう気持ちを持てたことがないから、本当にそんな気持ちがあるのかと疑いたくなるのだ。違ってたらごめんね、でも私はそうだったよ。あとは極端に完璧主義だったから、そういった志が「夢物語」に聞こえて、すごく嫌だったんだ。

 

 

あなたの目指すその社会の単位って何?

どの程度出来て初めて「出来た」と言えるの?それは数値で出せるの?

 

 

みたいなことばかり考えた。だから自分がそういう「想い」を持つことが出来なかった。だって、どんなに綺麗ごとを掲げても、この世から貧困も、差別も、飢餓も、性犯罪も、戦争も無くならないし、そんなに世界規模じゃなくても、日本で起きている問題を無くす方法が私には皆目見当がつかないし、どうすればいいか分からないっていつも途方に暮れていた。自分一人が動いたって、焼け石に水でしょう。意味がない。そう思うたびに、宮沢賢治

 

世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない

 

という言葉を思い出しては、その真意が掴めず絶望したりした。賢治は世界の幸福を願ったのだろうか。それに対し個人の非力を嘆いたことはないのだろうか。本当にそんなことばかり思っていた。

 

だから私が上げる志は全て空虚に思えた。どんな事が胸の奥から出てきても、それが実現可能かどうかを考えたら難しいからだ。社会を変えるなど、そんな大きなこと私に出来るわけがない。そう思い続けていたら、いつの間にか貢献したい社会もなくなっていたし、変えたい世界や社会も私の中から無くなっていた。

 

 

そこに前回ブログにも書いたが

「私にはなんの力もないけど、世界を変えたいんだ」

と言った人を見て胸も脳もすべてブチ抜かれた。

 

 

出来るかどうか、どうやってやるのか分からなくても、そういう事思っていいし、言っていいし、そうやって生きてもいいんだ!!と本当に驚いた。

 

そしてそれでいいのだ。

 

 

夢を見られなくなると、現実主義になり過ぎて、出来ること以外は思い浮かべられなくなる。でも出来る事、頑張れば出来る事、超がんばれば出来る事に自分の本当にやりたいことなどなかった。どうやったらいいか分からないような、大きな夢ってなんだろうと思った時にふっと浮かんだのが冒頭の15歳の時の思った「全ての人が生きる希望と活力を得る中心哲学を作る。そしてそれを普及する」ということだった。

 

 

で、それが思い浮かんだ時に真っ先に自分の中のアンチが叫んだ。

 

 

 

いやいやいやいや!!!全ての人って!!!世界人口何人いると思ってんの!!?無理だろ!!?お前みたいな社会性も知名度も、能力もないやつに何が出来るんだよ!やめておけって、寒いって!恥かくだけだって、痛いって!!

 

 

って。それに対して

 

 

確かにーそれも本当にそうだと思う。一理ある。でもぉー

やってもよくね?どうせ失敗しても誰にも怒られないし、誰にも迷惑かけないし、わたしそれにはワクワクするからやるー!!

 

 

とフワワーとあっさり後者の私が勝ちました。だからって私の中で「社会」ってもっとマクロサイズなんですよ。社会学における「社会」の最小単位って、「わたしとあなた」じゃないですか。だったらまずはそれが出来たらいいなーと思ったんです。私はたぶん他の人よりも社会が狭いのだと思うんです。自分以外の人が3人いたら「今日は人がいっぱいいる」って思うレベルです。1、2、3、いっぱいみたいなレベルだから。社会って言われてもピンとこないんですよ、人数が多すぎるとボーっとする。

 

 

だから社会の最小単位である「あなた」に届けばいいかなと思っている。その後の広がりは、頭のいい人なら戦略的にやっていけるのかも知れないけれど、まあチンパ中澤のレベルじゃそんな大規模なことは浮かばないから、どうやって叶えればいいか分からないけど、とりあえずブログ書こう~くらいのノリです。

 

 

「こういう社会にしたい!」と思っている人の想いは本物だと思うよ。本人たちも自分の命の限りでどこまで出来るのか分からないし、なんなら志半ばで倒れるかも知れないし、どんなに頑張っても少しずつしか変わらないかもしれないっていうことも受け入れながら、それでもやりたいと思ってしまったからやっているんだと思うよ。

 

 

なんか長らく「生きる意味」というものを探してきたけど、人間にとっては「生まれてきて、生きて経験することすべてが喜びだし楽しいんだ」って昨年の夏に体感した。楽しいって、苦しいとか辛いって感情すら、そういう経験のすべてが「楽しい」になるんだなと。ダイナミックなんですよ、生きるって。

megumintia.hatenablog.com

 

 

だから人類の大目的は「生きる事、そして経験して感動することすべて」だと私は思ったのだけど、それに気が付いただけでも生きている価値も意味もあるのだけど、それだけじゃ物足りなかった。人類の大目的の配下で、個人テーマも欲しかった。それがあったらさらに人生は面白いだろうなぁと思って。だから個人テーマを持ってまずは一番小さな社会に何かが出来たらいいなと思ったんです。

 

 

そういうものが1つあれば、自分のやることすべてはそこに繋がる。あまり気をわずに考えたら案外出てきそうだと思う。個人テーマはなくてもいいけど、あっても面白いなと。そんな感じ。今日はここまで!最後までお読みくださってありがとうございました!