運も実力のうちブログ

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なんの制約もない未来が描けない時は②

この記事の続きです。

megumintia.hatenablog.com

 思考の範囲が狭すぎると現実主義になりすぎる

 

まずは、『なんの制約もない未来が描けない人』がどうしてそうなったのかを探って行きたい。

 

この人たちは一言で言ってしまえばとても『現実主義」なのだ。現実主義はどうやって出来上がるかというと、過去に起きた事実をもとにして思考を決める人達だ。例えば、「宝くじを何度か買ったことがあるけど、当たったことがない」という事実があったとする。すると思考は「宝くじは当たりにくい」となる。

 

 

で、この過去の出来事にその人独自の主観(認知)と感情が入ると、思考との結びつきが強くなる。先ほどの例えを使って説明すると、「宝くじを何度か買ったことがあるけど、当たったことがない」人が、その時に

 

 

「こんなに買ったのになんで当たらないの!?腹立つ!!」と怒ったり「ああ、一攫千金かけてボーナス全部つぎ込んだのに!」と悲しんだりする。

 

 

そうやって悔しい悔しい!悲しい悲しい!腹立つハラタツノリ!!!ショックショッカーショッケスト!!!!って何度も何度も感情を揺さぶられて行くと、人って事実と感情を結び付けて、新たな主観(認知)を勝手に創造する。

 

 

事実は「宝くじを何度か買ったことがあるけど、当たったことがない」ただそれだけなのに

 

「宝くじを買ったら損する」とか

「買っても無駄、どうせ当たらない」とか

「夢を描いても手に入らないなら意味がない」とか

「俺はくじ運が悪い」とか

 

そうやって自分の主観(認知)が強化されていき、それが信念になる。信念になると

「宝くじ」というものを思い浮かべただけで「損!無駄!悪!」という思考になり、結果行動は「買わない」という選択を取るようになる。

 

 

もう一回言うね。

 

事実は「宝くじを何度か買ったことがあるけど、当たったことがない」ただそれだけで、もうそれは確率論だったり運だったりするわけですよ。以前ブログにも書いたけど、運っていい悪いじゃなくて、流れと波があるだけなので、言ってしまえばある程度はくじ運というものはみんなにあるという持論です。(もちろんくじ運の流れが先天的に太い人はいるし、波が大きい人はいる)

 

 

だから本当はどんな思考もあってよかったわけです。「宝くじを買うとお祭り感があってワクワクする!」という思考でも良かったわけだし、「国に税金余分に収めて貢献してる気がするわー」でも良かったわけだし、「夢見させてもらえる、面白いもの」でも良かったわけです。実際に宝くじを買った瞬間って、ドキドキワクワクしただろうし、夢も見て楽しんだと思うんですよ。その感情をすごく楽しむだけという選択肢もあったわけです。

 

 

事実に対して、いろんな思考があってよかったんです。でもあまりにも事実に対して「とても嫌な思いをした」や「とてもつらい思いをした」という主観(認知)が加わると、それ以外の思考が出来なくなってしまい、結果「現実は甘くない」という視点で物事を見始めるんですよ。そうすると、どうしたって明るい未来って描きにくい。

 

 

ちょっと難しいですよね。

もっと簡単に書きます。

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実例:頑張りすぎ組・考えるの放棄組

 

例えばわたしの場合、今までの人生って「頑張って初めて人並み」という感じだったのですよ。以前ブログにも書きましたが、非常に内向的な子供だったのでとにかくそれが原因で「母に悲しい思いをさせたくない」「恥ずかしい子供だと思われたくない」という想いだけで、すごく苦手なコミュニケーション能力をこれでもか!というほど努力をして磨いてきました。

 

 

 

事実は「内向的な傾向がある」ただそれだけでしたが、私がそれに対して、激しく羞恥と恐怖を感じたんですね。だから「人とコミュニケーションが取れない自分は恥ずかし存在だ」と思うようになったし、「それでは社会と上手くやっていけない」「ポンコツではいけない」と思うようになった。

 

本当は違う思考の選択肢もあったはずだけど、信念が強化されてそれ以外の視点で自分を見ることが出来なくなっていました。

 

そしてそこで「頑張って」内向的な性質を克服しようとして、幼少期から様々な努力を重ねますが、とにかくそれがすごく「苦しかった」し「怖かった」んですよ。毎回毎回、生きた心地がしなくて、もうこの時点で「生きるのってすごく大変」って思うようになったし、「こんなに大変な想いをして生きていくなら、人生って過酷すぎる」と思うようになり、「ああ早く死んで楽になりたい」まで思考が発展・強化していったわけです。

 

頑張って努力しなきゃ、自分はなにも得ることが出来ない。その思考を強化するほどに、同時に「無価値感」も比例して増えて行きました。そしてそこが結びつき

 

 

頑張って何かを成さなければ、自分に価値などない。

 

 

という信念までも手に入れました。

 

 

頑張らなければ自分はポンコツだ。

ポンコツでは生きていけない。

生きるために努力せねばならない。

努力は苦しく辛く怖いものだ。

現実は厳しい。

生きることは大変なことだ。

自分には生きる力がない。

自分には価値がない。

早く死んで楽になりたい。

 

 

 

これだけの思考をベースに物事を考えるんですよ。そりゃ何か夢を見ようとしても「努力しなきゃいけない」→「自分はポンコツだから」→「努力は苦しい」→「どうせ自分には出来ない」→「夢を叶える力もない自分は弱い」→「現実は厳しい」→「生きるの辛い」→「死にたい」

 

 

という思考が無意識のうちに駆け巡りますから、そりゃー過去がそんなにつらくて、現在も生きづらくて、そしてそれが自分にとっての「現実」だったら、未来への思考なんて薄れますよね。「どうせ未来も辛いんだろ」「たいしたことないんだろ」と。

 

 

だったらせめて、これ以上傷つかないように、これ以上苦しい想いをしなくて済むように「未来に夢を抱かない方がマシ」という選択をして、「想定範囲内の未来を描いておく方がマシ」となるのは、致し方ないことなのかなと思います。

 

 

今までだって、超絶自分にムチ打って努力して来て、頑張って生きてきてその結果が「今程度」なのに、これ以上大きな夢を描いたら、どんだけ努力しなきゃいけないんだよ!死んじゃうよ!もう無理だよ!ってなる。

 

 

だから今まで自分の本質を否定して、めちゃくちゃ努力を続けて人生を切り開いて来た人ほど未来なんて考えるのが恐怖なんですよ。「なんの制限もなかったら何がしたい?」と問われても「わからない」と言って考えることから逃げたくなる。思考停止になるのは、考えたら自分にとって都合が悪い時に脳が起こす防御システムですから。

 

 

あとは親御さんが過保護・過干渉でこどもが自分が考えたり、自分で答えを出す前に、「あなたこうすれば失敗しないわ」とか「あなたはこれが好きよね」「あなたはこれが向いてるわ」などと、口を出すだけではなく、行動を制限したり、指示したりして「思考と言動の自由」を奪われて育った子は、めちゃくちゃ自尊心が傷ついているし、親のその行動が自己否定につながるんですよね。

 

 

「自分は考えたらいけないんだ」

「自分の考えで動いたら、失敗するんだ」

「どうせ否定される。考えても無駄だ」

 

 

そういう思考を強化していき「何も考えられない」という思考を選択する人もいる。アドラー心理学の目的論になぞらえて考えると、これは親に対する一種の復讐行為を取りながら、その奥で激しい承認欲求があり、親の目を引きたいのかなと思ってみたりする。

 

「何も考えられない自分」→「生きるのが大変」→「こうなったのは親のせい」→「もっと私の声を聴いて!もっとわたしをちゃんと見て!」→「そしてどんなわたしでもそのまま愛して!」という潜在的なパターンがあるのかも知れないなと推察する。(

違っていたらごめんね)

 

 

実際、成人しても「何も考えられない」大人は存在する。自己意志で自己決定し、選択、行動した事柄の結果を受け入れる「責任能力」がとても低かったりする。簡単に言うと、すごく失敗を恐れて、正解や正しさにこだわる。責任を負うことに異常に恐怖心を抱くからだ。だから誰かに従っている方が安心するのだが、意見を求められると「正解」が分からないので答えられなかったり、頭が真っ白になってしまうため、無能扱いをされることも多くそのことで本人の無価値感がさらに強化されるため、ますます考えることを放棄したりする。

 

 

このパターンも「なんの制約もない未来」は描きにくい。正解が分からないもの、安全が保障されていない、誰も導いてくれない未来など、そもそも考えるだけで恐怖だったり、自分の思考を持つことを諦めている場合もある。それほどに苦痛が多い人生だったのだろうと拝察する。

 

 

いずれにしても人生で起こった出来事に対して、あまりにも苦痛が多すぎると「人生って大変」という信念が強化されて、未来への関心が低くなり、結果「なんの制約もなかったら?」と言われても、自分の思考が制約だらけなのだから、うまく未来なんて描けないということが起こる。

 

 

では、「なんの制約もない未来が描けない人」がどうすれば未来を描けるようになるのかを書く前に、まず未来を描ける人の思考について少し触れて行きたいと思う。

 

 

 

なんの制約もない未来が描ける人の思考

 

 なんの制約もない未来が描ける人というのは、過去と現在の思考の影響を受けていない人だと思う。そこに自分の能力とか、財力とか、性格とかも加味せず、真っ白なキャンバスに純粋に夢を描くのだ。自分が苦しくなるような思考は持たず、あれこれ制限を設けない。素晴らしいなと思う。でもあまりにも過去や現在の影響を受けなさすぎるのも、夢想家になってしまいイマイチ現実が見えていない感じで、少し危なっかしい印象を与えたりする。振り返り過ぎるのも考え物だが、振り返らなすぎるのも考え物である。

 

 

でもここで、確実に「現実を見ながら」「夢も追える」人というのもいる。そういう人たちは基本誰が見てもパワフルだし、結果を出しやすいし、何より話をしていてとても気持ちがいい人ばかりなのだ。彼らのあの気持ちのよさとは一体何だろうといつも思っていた。

 

それで最近気が付いた。

彼らは非常にフラットなものの見方をする。フラットなものの見方とは、いろんな思考にOKを出しながら、自分の過去・現在・未来から一定の距離を置いて全体を見ているなと思う。分かりやすく言うと、現在に軸を置きながら高い位置から俯瞰して物事を捉えているなと思った。まったく分かりやすくないですね。

 

 

過去の様々な経験から、様々な思考癖や信念を持っていたことを認めつつ、それが全てでは決してないことを知っているから、未来を描くときに過去に影響されずに大きく夢を描ける。でも軸足はいつでも「現実」にあるからこそ、その夢に対して本当に必要なマインドは何か、リソースは何かどんなアクションプランが必要か、ベイビーステップはどこから踏むか、それはそれはライトに行動に移してみる。

 

 

なんか私は彼らのことが少しわかった時に、ものすごく感動してしまったんですよね。こんなに過去の自分にとらわれ過ぎず、「今の自分」の状況に過不足の優劣のジャッジメントを付けず、そこに感情もつけず、ただ「今はこうだから」と冷静に物事を見ながらも「今はこうだけど、未来の自分は今の自分の延長ではない」とちゃんと分かっていて、さらにどう叶えるか分からないくらい大きな夢を描いて、それに向けた一歩一歩を確実に踏んでいく。

 

 

これが人間の本来の生き方だなと強く感動したんですよ。

理想の生き方ではなく、本来の生き方。本当はみんな思考の制限など受けて生まれては来なかったのだから、こういう生き方はやろうと思えばだれでも出来るのではないかと思った。

 

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未来を描くためのステップ

 

出来るのだ。でも段階というものがある。まずは過去と向き合って思考のクセを認識したり、人によっては様々な方法で癒したり解決する必要がある。これは文字で書くほど容易なことではないが、もし自分の人生の中で取り組む勇気が湧いたときはぜひトライしてもらえたらいいなと思う。

 

そしてそれがある程度終わると、「今までの苦しみなんだったの?」みたいな瞬間が訪れる。そのあとは苦しみがない、なんだか穏やかな時間というものが始まるのだが、この時に焦って未来を描こうと思わない方がいいと個人的には思う。生きるのに必死だった人が、やっと普通の状態ゼロポイントに戻ってきたのに、急にプラスに進むにはまだ気力も体力も足りないからだ。まずは未来を描くためのリハビリとして「なんでもいいから思いつくまま好きなことをする」ということを自分に与えてあげて欲しいと思う。

 

 

好きなこと、楽しいこと、やりたいこと、食べたいもの、なんでもいい。どんな小さいことでもいいから自由な思考と言動を自分に許可して、思考を緩めるリハビリをしてほしい。自分を抑圧してきた期間や度合いによって、必要な時間は人それぞれだけど、ここは手を抜かずとことん楽しんで「楽に生きてもいい」ということを細胞レベルで自分に教え込んで欲しい。

 

 

それをし続けると、正直飽きてくる。もうそろそろ次のステップに進んでもいいなぁという気持ちになる。とはいえ、今まで大きな夢を見たことがないので相変わらず未来を描くことが出来なくて途方に暮れて、「この先どうしたいかわからないんだよね」と友達に相談してみるも、多くは「自分の好きなことや興味があるものをたくさんやってみたら?」と生ぬるいアドバイスをもらい、さらにモヤったりする。

 

 

何故ならそういうフェーズはすでに卒業したからである。今までの思考の中で生まれてきたやりたいことは、全てやり尽くしたからである。

 

ここまで来たら、いよいよ「過去を受け入れ、現実を見て、今までの思考枠を超えて未来を描く」時期に入る。今までは生きるのに必死だったり、努力や根性でなんとか乗り越えてきた。でもそれは沢山の思考クセの1つでしかなく、今まではそれを選んできたけど、これからは他の思考がたくさんあるのを知っているから、自分が楽しく生きるために必要な思い込みを選べばいい。

 

 

そのうえで、「どうやって叶えたら分からない大きな夢を見る」ことをしてほしい。どうしてそんな大きなものを描くかというと、叶えられる程度の夢や、超がんばれば届くレベルの夢ってダルくないですか?モチベーションが上がらないし、奥底から何それ!めっちゃやってみたい!ワクワクする!!ってなりにくい。だから大きなものって大事。

 

ちなみに、そうは言われてもそんな夢なんか湧いてこねーわーとグダグダ過ごして来たわたくしですが、ある人の言葉を聞いて突如、制限が外れて急に夢が思い出されました。

 

 

ある人がね

「私にはなんの力もないけど、世界を変えたいんだ」

って言ったんですよ。

 

 

私はこの言葉にすごく胸を打たれたんですよね。自分に現時点で力がないことも、リソースや手段も何もかもが不明瞭で、どうやって夢を叶えたらいいか分からないということを「分かっている」けれど、でも「世界を変えたいんだ」と望んだその純粋さ、大きなエネルギー、真っすぐな想いの強さになんだか目の覚める思いがしました。

 

 

で、実際にその人はとりあえず失敗してもなんでもいいからと、自分が思いつく行動から始めているんですよね。するとどんどん必要なリソースや、手段、お金が集まってきているんです。その人も、自分の矛盾をよく理解しているんですよね。全世界を変える事などおよそ不可能かも知れないと。でもその考えすら受け止めて、「でもわたしは世界を変えたい」と想いを貫いている。

 

 

なんかねー、こういうのを見ると勝手に制限が外れちゃうというか。ああ、こうやって生きてもいいのかって思ったんですよ。出来る事から未来を決めるのではなく、自分には力はないけど、これがしたいと望んでいいのだと。

 

 

そしたら湧き上がるように出て来たんですよね。今まで自分ごときがそんな夢を見ても出来るわけがないと思っていたことが。10代の頃から生きづらくて、哲学という学問に会って素敵だと思ったけれど、私の生きづらさを解消してくれるような考えはどこにもなかった。

 

 

だからその時に思ったんですよ

全ての人が生きる希望と活力を得る中心哲学を作る。

そしてそれを普及する。

 

 

 ずっとそれがやりたかったのに、そこから目を背けて来たんです。だってそれってお金になるの?職業は哲学者になるの?活動はどうしたらいいの?どうやって勉強して、具体的に何をしたらいいのか分からなかったし、社会性があるとは思えなかったから。

 

 

でも今は素直に、ああこれがやりたいことだなと思う。自分がそんなに知能指数が高い訳でも、飛びぬけて言語化に長けているわけでも、文才があるわけでもないのは分かっています。とてもじゃないけど世界的な哲学者と肩を並べるレベルの頭はないし、全ての人に受け入れられる考えなど、この世に存在しないことも知っている。でもとりあえずこれをやっても誰にも怒られないからやろー!と思って、日々自分の考えをブログで発信しているわけです。

 

 

これをダイレクトにマネタイズする方法は分からないけど、お金になるならない関係なく、これは私のしたいことだからやろうと。その活動を続けるためには、当たり前だけど生きていくだけのお金は必要だから、そこはなんでもやろうと。不思議とそこに、今までの「努力しなきゃ」とか「死ぬほど頑張らなきゃ」という思いはない。

 

おそらく本当にしたいことって、努力が要らない。やりたい!どうやってやろう!という思いはあるし、それを作るためにエネルギーを注ぐけど、それは努力というより「熱中」という感じだ。やり過ぎると疲れるけど苦ではない。

 

 

あと、まじめな人だとその「やりたいこと」をずっと大切にしていかなければならないと思いがちだが、そんなことはない。モチベーションが無くなったら、その夢も寿命なのだと思う。その時々で描き直せばいいと思う。

 

 

だから、自分のフェーズに合った方法で、自分と向き合うことが必要な人は向き合い、休みが必要な人は休み、思考を緩めることが必要な人は緩め、回復したら描いてみたらいいよという話。ああ、難しかったし、読みにくい文章になっちゃったと思いますが、最後まで読んでくださって誠にありがとうございました。